いだてん NHK 大河ドラマ あらすじ ネタバレ 第40回 第41回 - けものみちをあるく

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いだてん NHK 大河ドラマ あらすじ ネタバレ 第40回 第41回

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いだてん NHK 大河ドラマ あらすじ ネタバレ 第40回 第41回

10月27日日曜日放送の第40回にて...。


サブタイトル「バック・トゥー・ザ・フューチャー」...。


あの1945(昭和20)年8月15日の"太平洋戦争"すなわち"第二次世界大戦"の"敗戦"から...。

そう、日本でいう"終戦の日"から...。


これからのすべてがはじまるのか...。


あの焼け野原を目の当たりにした痛みを跳ね返してやろうと、1948(昭和23)年、政治(阿部サダヲ)は日本体育協会(体協)を立て直そうとの決意を固めて...。

直ちに東龍太郎(松重豊)が、会長に決定となって...。

ほどなく日本水泳連盟(水連)理事長となった政治が、小池礼三(前田旺志郎)と宮崎康二(西山潤)を指導員とする中でのこと...。

浜松出身の古橋廣之進(北島康介)が、着実に実力を伸ばしつつあったものの...。

12年ぶりに開かれることになるロンドンオリンピックには、いまだ占領下であるために、参加できなかった。


それでも、2年後の政治が決してあきらめることなく、ダグラス・マッカーサー連合国最高司令官への直談判を続けた甲斐あって...。

水連は国際水泳連盟(FINA)へ復帰することになって、全米水泳選手権へ招待される運びとなった。

かの大会での日本選手団は、6種目のうち5種目を制して、廣之進はすべて世界新記録による勝利となった。


日本の独立は認められて、明けて1952(昭和27)年には...。

ついにヘルシンキオリンピックへの参加となった。

そこで、政治と龍太郎は、吉田茂首相へ日本でのオリンピックの開催を直談判する運びとなって...。

このヘルシンキと同じように、国や市からの助成を一切受けずに、入場料を取る方法を実行すべしとして...。

しかしながら、吉田首相の腰は重いままだった。

それならばと、自ら政治家になるしかないと、政治は実家の土地を売ってまでして選挙費用をつくって出馬したものの...。

呆気なく落選してしまった。


それでも政治は、決してあきらめることもなく...。


1955(昭和30)年、オリンピックのメルボルン大会となって...。

政治は、英語に堪能な岩田幸彰(松坂桃李)を同伴させて、現地でのロビー活動を精力的に取り組むことになった。

こうして、次のIOC総会は、東京での開催が決定して...。

アジア競技大会の神宮球技場での開催も決定して、8万人の収容が可能な国立競技場へ建て替えることにもなった。


機が熟したとみなした政治は、龍太郎へ東京都知事への出馬を勧めることになって、見事に当選。

1959(昭和34)年、龍太郎は晴れて東京都知事となった。


時は流れて、ミュンヘンで開かれるIOC総会となって...。

何と、スピーチ予定だった北原秀雄(岩井秀人)が、突然の怪我に見舞われてしまって...。

急場しのぎに迫られた政治は、代わりとして、治五郎(役所広司)の最期を見届けた平沢和重(星野源)に頼み込む。

さすがに荷が重すぎるだけでなく、まだまだ早すぎるとして、和重はためらうばかりだったが...。

治五郎をはじめとする多くの日本人からの強き想いを、切に訴える政治から圧倒されるうちに感銘して...。

こうして和重は、総会で見事な最終スピーチを披露することになって、東京オリンピックの開催決定を実現させることなった。



11月3日日曜日放送の第41回では...。

サブタイトル「おれについてこい!」ならではの追い風いっぱいに...。


かの東京オリンピックに向けての組織委員会がつくられるや...。

顧問には川島正次郎(浅野忠信)が、会長には津島寿一(井上順)が、それぞれ務めることになって...。

政治は、事務総長を務めるとともに、選手強化対策本部本部長も兼ねることになった。


ある日のこと...。

政治は、ふと女子バレーがメダルを獲れる可能性のあると知るや、直ちに練習場所へ出向いたものの...。

咄嗟に目の当たりにしたのは、"鬼の大松"こと大松博文(徳井義実)監督からの、とにかく厳しくも激しい猛練習ぶりだった。

激しい驚きを引きずったままながらも、政治は静かに技を磨き続ける柔道の素晴らしさを見せることを目当てに、治五郎の弟子たちの奮闘する柔道場へ、博文を連れていくが、耳を貸そうとしない姿勢に変わりのないままで...。

ところが...。

突然、何かに憑りつかれてしまった衝動の昂ったからか、何と博文は、柔道の受け身からの回転レシーブを思いつくや、そのまま実践を繰り返すことになって...。


日増しに熱の高まる丁々発止の続くようになった組織委員会では...。

選手村の場所が、埼玉県朝霞市のキャンプ・ドレイクに...。

グラフィックデザイナーの亀倉雄策(前野健太)が、東京オリンピックのシンボルマークをデザインすることに...。

記録映画の監督が、"世界のクロサワ"こと黒澤明(増子直純)に...。

それぞれ決まることになって...。

そして幸彰は、東京オリンピックを大いに盛り上げたい政治からの頼みで、およそ1年余のローマの視察となった。


ローマで開催のIOC総会にて...。

東京オリンピックの競技種目が、正式に決まった。

政治としては、アメリカから発祥のバレーボールでメダルを獲りたかったが、治五郎のこれまでを思えば、柔道を正式種目にするしかなく、削ることはできなかった。


数日を経て...。

ローマオリンピックの視察を終えた幸彰が、帰国した。

報告によれば、日本は体操で4つの金メダル4を獲ったものの、陸上や競泳での結果の悪さが災いしてしまって、総合で世界8位という。

黒澤監督からの、予算20億円が必要との主張を踏まえた上で...。

幸彰は報告する。 ローマオリンピックの費用は、国から出ない代わりに、トトカルチョというサッカーくじの収益で賄ったという。


是非東京オリンピックにも導入しようと意気込んだ勢いのまま、政治から記者を招いた公開討論の場であったが...。

龍太郎からのトトカルチョの提案に、寿一は真っ向から反対する。

神聖なオリンピックが博打で怪我されるのはけしからん、として。

正次郎も同じだった。

画期的と考える政治は、正次郎と真っ向から対立する。

結局のところ、多くの反対に押される形で、政治から折れたものの...。

選手村の場所をめぐっても、対立は続いてしまって...。

政治は代々木を、正次郎は朝霞を、それぞれ勧めての主張は、平行線のままだった。


1961(昭和36)年になって...。

前年1959(昭和34)年5月に開催されたミュンヘンIOC総会にての和重のスピーチが幸いしてか、男子バレーが正式種目として加わることになったことで...。

政治は選手村の件でも、幸彰への協力を頼み込むことになった。



とうとうここまでに...。


あの忘れもしない1945(昭和20)年8月15日の終戦から...。


ありとあらゆる波瀾万丈と紆余曲折を経て...。


1964(昭和39)年10月10日[のちの国民の祝日・体育の日]から10月24日までの15日間の予定となって...。



不思議にも、あの1947(昭和22)年1月12日より、美濃部孝蔵(森山未來)のちの"昭和の大名人"こと古今亭志ん生(ビートたけし)が、満州から引き上げて、1月27日に日本へ帰り着いた一方で...。


かの東龍太郎が、日本体育協会会長へ就任することになっていたとは...。



この年2019(令和元)年7月5日金曜日より発売の『東京オリンピック1964』(松下茂典/潮出版社)には...。


第18回オリンピック競技大会、そう1964年東京オリンピックに至るまでの...。


光と影にまつわる問題、悲しいかな近未来も続いてしまいそうな予感が...。


たとえこの先どれだけ時代が変わったとしても...。


決して忘れない。

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2019-10-10 | Comment(0) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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